多摩市役所剣道部・若葉剣友会 本文へジャンプ
多摩市の歴史


多摩市のおいたち

当市開拓の年代などを知る記録はなく、くわしく知ることは困難ですが、太古の頃すでに民族が居住していたことが土器や古墳などの発掘から推定されています。文献に現れているもので「東鑑(あずまかがみ)」の知承5年の記録に乞田、一ノ宮などを小山田三郎重成が領有したと記されています。以後応仁、文明の頃は上杉氏、天文の頃はには小田原北条氏のそれぞれ領土となっています。さらに天正18年には徳川氏の領土とめまぐるしい領主が変わってきました。
明治元年には、品川県および韮山県に分属し、同年11月には統一して神奈川県に編入。明治22年4月、町村制施行により、関戸村、連光寺村、貝取村など8か村および2か村の飛び地が合併して多摩村となりました。昭和30年4月1日には、連光寺の一部であった下河原地区が府中市へ編入となる。昭和39年4月1日、町制を施行して多摩町、さらに昭和46年11月1日には市制を施行して、多摩市となりました。昭和48年12月1日には小野路町(町田市の一部)が編入され、今日に及んでいます。

みんなで歌おう 市民の歌
多摩市市民の歌 "空は虹晴れ" 作詞 清水 みのる
                作曲 小田 紀子

    「空は虹晴れ」

一、かがやく太陽に 照り映えて
  伸びゆくわが都市 ああ多摩の街
  そよふく風さえ さわやかに
  流れる歌の 調べにも
  明日への夢は あふれている

二、小鳥のさえずる 窓あけて
  ほほえみ明るく 手を振る人よ
  心とこころを かよわせて
  こだまに返す 呼び声に
  虹晴れ空は すきとおる

三、希望をたたえて たたずめば
  見渡す台地に 萌え出る若葉
  山あり谷あり小川あり
  栄ある都市を築くいま
  拓こう多摩の進む道


多摩市の概要

多摩市は、清流多摩川を背にした連の丘陵と、南にのびる数条の丘陵に囲まれて形成されています。この丘は、万葉集に多くの人によって歌われている向の丘で、また、明治天皇がしばしばウサギ狩りや、アユ漁に来遊されたところであります。今、当時の御野立所を記念して建てられた聖蹟記念館があり、都立自然公園の名所として雄大な眺望が広く知られています。このほか関戸古戦場(元弘3年5月16日暁、新田と北条の合戦)、霞ヶ関南木戸柵跡、対鴎荘など多くの史跡に富み、都民に親しまれたハイキング地でもありました。しかし、この由緒ある向の丘一帯も時代の流れに抗すすべもなく、戦後の交通機関の発達と都市の拡大傾向に伴って、純農村からしだいに姿を変え、住宅地として脚光を浴びるに至り、桜ヶ丘住宅(京王分譲地)を始めとし、公団、公社、民営の住宅が多数建設または工事中です。特に新住宅市街地開発法の適用による、南多摩新都市開発事業(多摩ニュータウン)3,014ha(計画人口約35万人)の中心をなす当市は、今後飛躍的発展が約束されている反面、財政面など、困難な問題も山積みしているということです。

(昭和51年現在、多摩市より)

  
 多摩市章は、多摩市の「多」を、ハトがはばたいて飛び立つ姿にたとえて表したもので、特に真ん中の線はこれからの限りない発展と平和を力強く表しています。(昭和40年1月5日制定)


多摩市制宣言


 われわれは、理想に燃ゆる「太陽と緑に映える都市」を建設するために、地方自治の本旨にのつとり、本日ここに、多摩市制の施行を力強く宣言する。
 本日の光栄は、実に遠き歴史を継承して幾変遷 ことに郷土伝統のゆかしき名称を冠して、多摩村の誕生および多摩町制の施行等、関係各位の先駆的な努力功績に由来するところ絶大なることを銘記しなくてはならない。
 急激な社会構造の変化に対処し、われわれの高く掲げた理想的都市建設をめざして、いかなる困難にも堪えて、渾神の力を尽くすとき、市民の文化の向上と福祉繁栄の道は必ずやひらけくるものと確信する。
 いよいよその任の重を自覚し、知能を傾け誠をいたし、市民の総意のもとに近隣と連帯提携し、輝かしき目的達成のために奮起まい進することを固く誓うものである。

昭和47年7月


   
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